さて、嘔吐してからの後始末は大変だった

私は元よりよく食べる子ではなかった為、此度の柄にもなくスーパーの総菜をふんだんに買ってきて喰らうというのが心身ともに辛く、結果嘔吐を引き起こしてしまったのはしようのないことだったと、切に思いたい。

 

何はともあれ吐き気を自発的に起こすことが、稀によくある私なのだから嘔吐行為に関して言えばこれは優良だった。私は吐くことに慣れている。もっと言えば上手く吐けるコツを他の媒体から得ずして、本能的に培えていた。

 

薬物乱用のODも結論を言えば吐くことに繋がる。胃の中でごちゃまぜになった内容物が、いつまでも体内の中で膨れ上がっていくわけにもいかず、宿主の中から出て行こうとするのは常だ。であればその手助けをしてやれるのは、おぼつか無い指取りで、虚ろな目に焦りの涙を滲ませた自分だ。吐くときは一瞬。苦痛から解き放たれた時の自分をイメージする頃合いにはすっかり胃液の味を、舌中で味わっている自分が居た。

 

吐瀉物は泡立ち、その隅々に鳥のささみのような肉片が幾多にも散らばっている。これもよく目にした光景。ただ見るに堪えないものに違いはないので、すぐ流しの蛇口は引いた。後にはすっからかんな、真白に輝く便器の穴が覗いているだけである。

 

嘔吐をしたのち、次に私を悩ます要因は吐瀉の跳ね返りが、自分の衣服に付着していないかということだった。執拗に衣類の端々を確認しながらも、『らしき染み』を見つけられなかったのにも関わらず、神経質な清潔感には打ち勝てず、衣類は全て脱ぎ去り下着一枚の半裸で残りの時間を過ごすことに決めた。腕はこの際何度も洗った。肘元連なる産毛まで、こすり落とす様に何度も何度も扱いてやった。

 

胃液を仄かに喉奥で感じ取りながらの煙草は最高だった。悪臭の立ち込めるのを、人体に有害である紫煙で吹き飛ばすのがことさらに愉快だった。こうしても見てみれば、口うるさく罵られ続けた煙草の害だって甘々しく感じ取れて見たものじゃないか。

お初にお目にかかりまして

インターネットに触れる生活を続けてきて、12年が経った頃か。

その間私は『ブログ』という情報発信サイトの存在を知りつつも、実際に触れてみる機会がなかった。別にこういった媒体に対して億劫であったりだとか、良からぬ話を耳にして意図的に遠ざけていたとか、そういうわけではない。

ただ、何事にも発信することに長けてはいない自分の内面性を知り足りて、今まで書こうとしてこなかった。人に対して有益な情報を発信し続けるだとか、前衛的になり過ぎる自分の文章力を嘆いてそういう風にしてこなかった。ただそれらのみである。

 

だが意外なことに、私がインターネットに触れ続けた12年の間で、私個人が思っている禁則を堂々と破っている者、あたかも日本語の文章にすらなっていない者はたくさんいた。強いて言うならそれが人に与える心地よい難解さであったり、人を招く物として扱われ、崇め奉られるのさえ見てしまえば、私個人のハードルなんかはありもしないも同然だった。だから書こうと思った。自分の思うように。

 

だがここまで言っておいて、作文することが何の苦でないとも私は言い切れずにいる。

確かに文を書くことのハードルは下がった。ここでは自分の思うような文章が最低限是認されることは知った。だけれども無作為に良し悪しの分けられない小文を書くことはどうしても憚られる。それは今現在のインターネットに流布する、明らかにせられない風潮だったり、自分の書いたものに対して反論で説き伏せたりする者。そういう者らを多く知ってからは私のキーを打つ手は、戸惑い都度止まる。

 

結局、私が触れてきた12年間のインターネットなど、図書館の小脇に追いやられた、誰からも読まれない陰鬱とした蔵書みたいなもので、それを手に取る者は開口一番に「奇譚だ」と言っておいて本棚に優しく据え戻すのが常である。私はそれを甘んじて受け入れるどころか、それを常にしたい。それを常にしておけば自分の作文力も苦より滲んで、もっと意味の無い物として和らいで安静に続けていけそうだからである。

 

こうも、小難しい洒落にもならない文章を書いてはいるが、私はアニメや小説、映画なんかの娯楽が好きだ。こんな文章を書く一方でいつかはアニメ、映画、小説なんかの批評をするのかもしれないからそれを心待ちにして、見て居て欲しい。

 

初めてのブログの挨拶はこんなものである。